2019.3/30~5/19_風と空と波と光の人形劇場 加藤啓展
日時:[終了しました] 2019年3月30日(土)〜5月19日(日) 会場:砂丘館ギャラリー(蔵)他各室
梯子の上の世界 去年の10月、新潟市の信濃川河畔で加藤啓のライブフォーマンスを見た。 加藤のパフォーマンスは海岸や河畔など水辺に開けた場所や、青空が抜けてみえるような空間で行われることが多いらしい。そういう場所を選んで行われるということだ。浜で拾った流木のかけらや、貝殻、針金、角の削られたガラスや元がなにかわからない漂着物の部分などで組み立てられた人形、あるいはうさぎや鳥や象などの「生き物形」たちの造りは、どこかたよりなく、小さい力でたちまちばらばらになって、もとの漂着物に還ってしまいそうだ。けれどそれらは、加藤の手わざによる、精巧な構造をも隠し持っていて、白塗りの老いたピエロのような風情のほっそりした加藤が素朴な操り棒や、針金や、操り糸を手にするや、たちまち波止場の一角で、精妙なダンスを披露したり、語りあったり、空中を舞ったりするのだった。 とはいえ、その動作や仕草は、いかにも漂着物を身体とする者たちらしく、儚げというか、おぼつかなげというか、ほんの一刻生を与えられたものならではの風情をただよわせ、それが水辺や空の大きな広がりと鮮やかな対照をなして、見ていると、まるで哀調を帯びた空虚なバンドネオンの旋律がどこからともなく聞こえてきそうな心地になるのだった。けれど現実には、冷たい川風が、秋の陽光が、公園の道を行く人々の声が、日常の空気をそこへ運んできて、夢幻と現実の同時存在、混淆、パラレルワールドの感覚にふしぎな目眩を私はおぼえた。 儚げと書いたけれど、加藤の人(生き物)形たちの儚さは、その身体の透明さからも来ているようだ。パフォーマンスの後半に空に高く掲げられた象は、針金の輪郭だけで出来ていた。象を見ようとすればするほど、観客の眼球は洪水のような空の色にひたされる。これは作者が仕組んだ効果でもあって、人形劇を見に来たはずの観客は、結局空を、水を、風を見つめ、感じ、しゃがみこんでいる自分に気がつく。 新潟市在住のダンサー堀川久子は、場所の磁場を感じ、対話して、場所の声を見るものに開くふしぎな力を持っているが、加藤の人形たちは、その輪郭の弱さ、透明によって、いわば場所を素通りさせて、見る者に突き当たらせる。観客は夢を見ながら、その夢から覚めて、しかもそれを思い出せないでいるような、自分の身体のある場所に遠くから「投げられた」ような心地になる。 これらの人・生き物形たちのイメージを、しげしげと見つめる者は、かれらがどこか、日本(ここ)ならざる、エキゾチックな空気を発していることに気づくだろう。加藤のパフォーマンスに際して作られ、配られる手作りの案内状(今回も作られる予定)に、いつも母国語ならざる言葉(フランス語や英語)が加えられているように。それらが砂丘館という昭和の日本家屋に吊るされ、置かれるとき、そこにはきっと奇妙で、おかしみさえある違和感が立ちあらわれるに違いない。昭和の日本家屋も、現代においては十分にエキゾチックな場所なのだが、家と人・生き物形という、ふたつの異質なるエキゾチックがシュッとこすれあい、あるいは引き合って、音もなく裂けて生まれる(だろう)その違和感こそ、加藤啓がその人生をかけて、細い針金の上で回し続ける円盤の、皿の上の青空広場へと掛けられた、繊細な蜘蛛の糸でできた梯子なのだ。観客は会場をめぐりながら、自らその踏桟を一歩、数歩と、昇るように歩かなければならない。昇って歩いて行かなくてはいけない。そうしないのならこの展示をあなたは見たことにならない。 大倉宏(砂丘館館長)