母守唄 母は焚き木です展
日時:2024年2月15日(木)~3月24日(日)【終了しました】
『母守唄 母は焚き木です』は国見修二の2019年の詩集で、毎週著者に手紙を書いてくるという刊行時92歳の母をイメージの核とし「母は△です」の△に、わき上がってきた言葉を次々に入れ込むことで生まれた250篇の3行詩が収録されている。母守唄とあるように、大人になった子が、逆に母を「あやす」ように口ずさむ唄のようにも読める。 男の書き手による母への賛歌として読むと、息苦しく感じる人もあるだろう。 私(著者)の母○○の、「私」「○○」(固有名詞)が省かれることで、詩の「母」は読み手自身の母、世間や社会の中の母をも喚起するはたらきを持ち始める。 この詩集の「展示」を著者から提案されたとき、ためらいがあったのは、「息苦しく感じる人」について思ったからで、「その人」は私のなかにもあった。 しかし、くり返しひもとくうち、本書は母の解体、とまでは言えないとしてもユニークなイメージの拡張としても読めると思えてきた。具体的な母の記憶を軸にしながら、あるいはそれゆえにと言っていいかもしれないが、既存の概念、役割、理想としての母を、詩の多様な言葉が揺らし、ほぐし、広げている詩集でもある。 さらに思い浮かんできたのが蓮池もも、しんぞう、木下晋など、砂丘館でかつて紹介してきた美術家たちの作品にも、母をモチーフとする重要な作品のあったこと、それらのなかにも詩と同じように、ひとりの現実の母を核としながら、それらを「開く」力があったことだった。詩の言葉と、それらを、同じ空間に並べてみることに興味を感じた。絵に詩の説明や共鳴板としての役割を単純に担わせるのではなく、この詩集のもつ「拡張」作用との協働を、展示という行為によっておこなえるのではないかと考え、著者の提案を受けとめることにした。 「役割としての母」に、ある性と身体の機能を持って生まれた人の人生の自由を縛する一面があり、その一面は当然批判されなくてはならないが、現実に母であった、母である人たちがおこなってきた、おこなっていることの意味を考える課題自体は、そのような批判で消え去るものではない。 著者も関心を寄せる問題、現代の子を守ることや子らの豊かな環境を維持し、創ることは、私たちの時代、社会の大きいテーマであり、さらに時がたち、子が逆に保護者だった人たちを守る立場にたつときなにができるかについてもこの詩集は考えさせる。 この詩集が単なる母の賛歌として読まれることは、母を批判する立場の否定にもつながりかねない。そんな危うさを意識しながら、この砂丘館でどのような展示が可能なのか、試みたい。 大倉 宏(砂丘館館長) [caption id="attachment_10306" align="alignnone" width="200"] 漆山昌志「バイバイ」2000年頃 石彫[/caption]