湊 雅博写真展 海 / FUSION:環
日時:2025年2月13日(木)~3月23日(日)
抽象としての海
私事になるが、新潟市白山浦に転居した42年前、徒歩20分ほどの寄居浜までよく海を見にいった。ことに、荒れた日はいてもたってもいられず、真夜中、高波の飛沫が闇の中を白い生き物のように揺曳する光景など、数知れず見たせいで、今も目に焼き付いている。
写真集『FUSION:環』(2019)に鮮烈な印象を受けた写真家、湊雅博に、47年前に出したという『海』という写真集があることを知り、お願いして送ってもらった。
写真ページを開いたとき、自分に刻まれた「あの海」たちがよみがえった。
キャプションが付されたのは冒頭の一枚のみで、その言葉も「SINCE 1973」とあるだけで、どこの海とは書かれていない。しかし、まったくふしぎな偶然だが、その写真だけは佐渡であることが分った。というのも同じように荒れた日に、ほぼ同じ場所で、私自身が撮ったカラー写真があり(構図もほぼ同じ)、それを30年ほど続けた大学での日本美術史の講義で、枯山水庭園の話をするときに必ず学生たちに見せていたからだ。
ほかの写真すべてが、同じ佐渡で撮ったとは思えず、おそらく、いろんな土地で撮影したのだろうと想像したが、その最初の一枚を除けば、場所や土地の特徴を示唆するものはほとんど写しこまれていず、というか、意図的に排除されているようで、「どこの海」を撮ったと感じさせない、語らない写真だけで、一冊の写真集が構成されているのだった。
その、一つひとつの海が、監督署小路を抜け、岡本小路の坂を上り、下って自分が会いに行った海であるような気がしてくる。そもそも、あの頃私は、なぜ海を見にいったのだろう。あるいは、人はどうして海を見に行くのか、海を生活や活動の場としない人間が、ときおり海に「会いたい」と感じるのか。
抽象という言葉が浮かぶ。
海は抽象なのだ。海辺の町に暮らす、海と日常的にかかわりのない人間にとって、海は純粋な抽象としてあらわれる。防波堤越しに眺める荒波や、水蒸気を立ちのぼらせたり、千々にひび割れる水面や、のたうつ白いかたまりとなる飛沫には、現実的なもので構成される町の空間を満たす「意味」がない、抜き取られている。世界から意味以外を「抽(ひ)」き出して「象(かたど)」った世界が生きて在る。あの頃の私には、そのような――観念的ではない、具体的な抽象を呼吸することが、切実に必要だったのだ。
『海・・・No Maritime Mind』は1978年に刊行された。41年後に刊行された湊の実質2冊目の写真集『FUSION:環』では、その抽象の純度がさらに深まっている。それでいて絵画ではない、まぎれもない「写真」としての容貌を強めることで、<記録と表現>の二面だけでは計りきれない、写真の深度を、問いかけている。
大倉 宏 (砂丘館館長)
『海・・・No Maritime Mind』より
『FUSION:環』より