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吉田 千秋
(よしだ ちあき 1895―1919)
旧新津市(現新潟市)大鹿生まれ。父が東京で仕事をしていたため、東京と大鹿で暮らす。幼少からさまざまなことに興味を持つ。科学、外国語、音楽に特に関心を示し、ローマ字に関して学者と論争する。18歳で発表した英詩WATER LILIESの翻訳に自ら曲をつけた「ひつじぐさ」が、療養のため帰郷していた20歳の夏、雑誌「音楽界」に掲載される。帰郷後はキリスト教無教会派の大鹿教友会に加わり賛美歌の作曲もする。早すぎた晩年には「大鹿野園」と名付けた花園で育てた草花の記録を克明に残した。肺結核のため24歳で死去。 |
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2006年5月28日
お話とフルートコンサート
●お話
吉田ゆき(千秋の姪)
桂 幸佐(「ちあき」の会副会長)
大倉 宏(砂丘館館長)
●フルート 桂 聰子
伴奏・梅津幹子 |
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吉田ゆきさん |
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桂 幸佐氏 |
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大倉 宏 |
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桂 聰子さん |
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梅津幹子さん |
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吉田千秋がやりたかったこと
――手作り雑誌の小宇宙展に寄せて
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旗野 博(吉田文庫代表) |
1993年6月12日、新潟日報に「作曲者の消息教えて」の記事が載った。それが『琵琶湖周航の歌』作曲者吉田千秋(1895―1919)の再登場の始まりになった。千秋が阿賀野市出身の歴史地理学者吉田東伍のニ男であることは、その日のうちに分かった。千秋生家当主で弟の冬蔵氏は、文献と資料の山の中から千秋の数枚の写真とメモ類を探し出してくれた。
私たちは東伍生誕の地安田町(現阿賀野市保田)で、秋に東伍の展覧会を企画し作業中であった。父の展覧会にそれらは初めて展示された。聞けば千秋は旧制中学時代から肺結核に侵され、不安をかかえての日々であったと。千秋は東京の農業大学予科に進学するが病気治療のため故郷に帰ってくる。
展覧会から13年。千秋の遺品が数多く残されていることが分かった。昆虫、鳥類、魚類を含む動物学。花卉球根の植物学。地性地質の土壌学。ギリシャ神話や天体宇宙の天文学。7ヵ国ほどの外国語と海外文通や外国地理。キリスト教や仏教神道の宗教学。ローマ字運動や表記法についての論争の顛末。作詞と作曲。和歌に方言と、その研究は多方面にわたっていた。
かなりの量のそれらは、綿密な調査に基づいた記録と成果であり、驚くことに独学であった。「琵琶湖周航の歌」はそれらの中のひとつであり、千秋が「ひつじぐさ」として発表した旋律を旧制三高生が借用したものであった。
これらの広範なまなざしと精力的な活動は、父東伍の少青年期と同じであった。父は多方面への関心を地名研究に収斂させていった。しかし息子の千秋には死と直面した日常があり、そのような時間がなかった。
千秋の最後の研究はふるさとの方言であった。多くの採集カードも残された。ノートには発音記号が書き込まれている。言葉には発音がある。発音記号の記載は、方言研究が本格的なものであった証しである。上京しての治療に見込みがなく、医師の最後通告を背に帰郷する。帰郷の言葉は「どうせ死ぬなら大鹿(現新潟市新津)でと思い、死にに帰ってきました」だったと言う。最後の研究がふるさとの方言であり、死に場所もふるさとであった。24歳で亡くなった千秋の最後の意志がここにありそうだ。
千秋は小学生のころから手製の個人誌を出し続けた。療養でふるさとに戻ってからは、村の青年たちと手製の回覧誌も発行した。これらもすべて残された。
千秋逝去から87年。このたびの新潟での手作り雑誌の小宇宙・吉田千秋の「SHONEN」と「AKEBONO」展では彼のすべての紹介はできないが、この個人誌を中心に挿画の類、表紙、レタリングなどをごらんいただく。
千秋が何をしたのか、何をしようとしていたのか、探っていただければ幸いである。
2006年5月25日 新潟日報 掲載
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