新潟市の羊画廊で、陶芸家佐藤公平の新作展が開かれている。
同時期に砂丘館では1980年代初期からの、佐藤の制作を振り返る展覧会も開催中。毎年新しいアイデアで私たちを驚かせ、楽しませてくれるこの不思議な陶芸家の、面白さの向こうにあるものにも触れることができる。
特に、砂丘館の蔵のギャラリーの展示から伝わってくる、独特の空気の感触が印象的だ。「笑い」を風呂敷に包み、それをきっちり縛って、宙にそっと置いたような感じとでもいったらいいだろうか。
「KAWARABAN」という作品では瓦型の陶器に新聞が転写されている。「ザ・日本陶」は日本刀の形に焼いた陶作品。蹄鉄は人の足にはめるてい鉄を贈り物の靴のように箱に入れたもの。陶の札束の「寸志」。どれも押し殺した笑いを後ろ手に渡されるみたいで、こそばゆい。こうした個々のシリーズは、毎年の発表で触れてきたものでもあるのだが、一堂に会したのを見て、気付くのは、すべて黒陶―黒い陶器であるという事実と、その「黒」のパワーである。
ギャラリーに足を踏み入れた瞬間、まずその黒の声に取り囲まれ、空間がどこかでめくれ、裏返ったような浮遊感に襲われる。佐藤の黒は色の黒というより、影に似ている。モノに光が当たるとき、光の反対側に現れる影。その影がモノをのみ込んで、モノになりすましているような奇妙さが、ここにある。
砂丘館の和室に置かれた「視覚闘争」は黒い陶器の表面に、鉛筆で「影」を描いて平らな面が波打つように見える。「箱×箱」では中央に開けられた穴の闇が立体の一部になり、見え方を混乱させる。モノにくっついていて、モノでない部分が影=黒の領域だとすれば、それはモノの心にあたるような部分とも見える。佐藤公平の詐術に満ちた作品が、面白さを越えてどこかで見る者の内面にまで、やわらかに切り込んでくる感触を持つのは、共振する心の内部=闇の体温がそこにめぐっているためだろう。
私が佐藤公平の作品に最初に強く引かれたのは、1994年発表の「ひ(日、火)」のシリーズだった。火で焼かれる陶器で作られた手びねりの火。「すでにそのひは」「めぐりあうひ」など「日」を掛け言葉にしたタイトル。その諧謔の向こうに燃えているものに魅せられた。その黒い火の前で、公平さんと暖炉の火を見つめるとき、私たちは自分の内部の闇が、ゆっくりと凝固し、発熱するのを感じる。
佐藤公平のマジカルなイメージの数々は、そのような内なる熱い固体との対話から生まれている。