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山巓(さんてん)の光

大倉宏
 
 高見修司の死後まもなく、私は新潟日報に次のような文章を書いた。

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 「ほんとうに不器用な人だったわ」
 故高見修司の絵を見せてもらいに、故人宅を訪ねた日、改めて気付いたようにそう言って、妻の幸子さんは笑った。磊落で暖かい笑顔だ。葬儀の朝、その同じ顔が、泣きはらした真っ赤な眼で、棺の中をくいいるように見つめていたのを思い出す。
 羊画廊の堀さんから、突然の訃報を告げられたのが7月2日。38歳という、早すぎる死だった。翌日駆けつけた内野の葬場で目にした画家の死顔が、ガンにむしばまれ、見る影もなくやせて、痛々しい形相だったのがまだ記憶に生々しい。
 この日、幸子さんから聞かされた高見修司の人生の軌跡も、いかにもこの人らしい不器用さを感じさせる。生まれは兵庫県加古川市。父の死が契機となって、大学を中退。飛び込んだ画材店で衝動的に油絵具とカンバスを買い求め、絵を描きはじめる。。永住を決意して南洋の島へ赴くが、病気になって命からがら帰って来たこともあった。その後金沢、鎌倉、横須賀などを移り住む間に結婚(駆け落ちだった)、子供が生まれて、妻の実家に近い新潟に居を定め、いくつもの職を転々とするが、絵を描く時間が欲しいばかりにどれも臨時雇いで通した。最後の仕事は食品の配送だった。発表は数回の個展、それに数少ない画友のひとりだった信田俊郎との2人展が一度。画家になりたいという強い思いと、才能への懐疑の間で絶えず心が揺れつつも、死の前の数年間には、かなりの量の水彩画を描いた。しかし、その大半は自分で破棄してしまったらしい。自宅に残された絵は、この人の画業の年数を思い合わせるとあまりに少ない。
 ところでその絵も、見ようによっては、高見修司の不器用さの賜物だったと言えるかもしれない。例えば、彼の水彩や素描に共通する特有の筆触は、まるでせっかちな子供が、急いで仕上げようと無造作に筆を走らせた跡そっくりだ。ところが、その不器用な筆が、はしっこい風のように紙の縦横をめぐりながら、不思議な夢想やイメージの切れはしを誘い出す時、駆ける色や形に、あるいは夢想そのものの内へ、遠くから差す溌剌とした光のように、無垢の感情の弾む息遣いがにじんでくる。いうならば、画家の魂の生理が、この無垢を、光を、呼吸することを求めたのではないか。残された水彩画を一枚一枚眺めていると、山巓の空気にも似た、清冽で澄みきったものの気配が、私の中に満ちてくる。
 描かなければ心が生きられない者を「絵描き」と言うならば、高見修司は、今日では稀な、まぎれもない真正の「絵描き」だった。その死の意味は、時を経るにつれて、私の中でますます重いものになっていくに違いない。

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 ここで、私は「山巓の空気」という言葉を使った。この言葉を、その後幸子さんから聞いた話につなげて改めて思うのだが、高見修司には、〈地上〉と〈山巓〉という異なった場所に住む、二人の人間が共存していたのではないだろうか。地上的な面について言えば、彼はきわめて愛情深い人間だった。それは、思い出を語る幸子さんの様子だけでも解るけれど、ほかにこんな話がある。初めての子供が生まれたとき、子供のそばに両親がいた方がいいと高見修司が言い、それを聞いた幸子さんは勤めをやめ、二人で無職の生活を1年ほども続けたというのだ。現実的な感覚の人なら、ちょっと物語のようだと思うかもしれないが、高見修司はそういう男であり、ふたりは、そういう夫婦だった。この時期、高見修司は油絵の制作に行きづまり、連日、図書館に通って本を読んでいた。その読み方も変わっている。まず金子光晴の全集を読み、次に金子の書簡集に出てきた本を、書架にないものは図書館に注文してもらい全部読んだ。ヘンリー・ミラーやホィットマンにもこうして出会う。神秘主義思想家スエーデンボルグにも、耽溺した。二十数巻の著作集を読破後「これまで自分は無神論者だったが、今は転生を信じるようになった」と語ったという。
 高見修司には、何か魂の傷のようなものがあったのかも知れない。生母と早く死に別れたこと、父が死んだ直後に衝動的に絵を描き始めたこと、南洋の島に一人で定住しようとしたことなどから、ふと考えるのだが、詳しい事情は知らないし、また知る必要もないことだろう。ただ、そう想定してみると、高見の人間的な暖かさと、地上的なものを越えた生への関心が、彼の内面では同根だったのではないかという私の印象に、うまくは言えないが、納得がいく。
 読書や転生についての逸話もそうだが、高見修司の海への執着なども、彼の内なる、非地上的な、〈山巓〉的な面と関係があったように思える。南洋の島へ行ったのも、海のある土地に暮らしたかったからだったと幸子さんは言う。横須賀では駅に近い海を見下ろす丘の家に住んだ。新潟でも、しきりに海辺の家を探しまわり、山北町や佐渡にまで家捜しに足を伸ばした。家捜しの仕方も独特で、気に入った土地をぐるぐる回って、空家を探して歩く。最後は夫婦で、内野の漁港の付近を歩いて、砂丘の住宅地に借家を見つけた。海が荒れると、波の音が聞えてくる家だった。海は高見修司にとって何だったのか。人間の世界に接しながら、隔てられたところ、絶えずおし寄せ、いつも遠ざかる、光や風や雲を織りまぜ、ほどいていく場所。生むことで壊す、無限の繰り返しが、不断の新しさを形づくる世界を、彼は身近に感じていたかったのだ。なぜなら、それは彼の中のもうひとりが住む場所であり、そういう場所、つまり〈山巓〉でしか、その男は生きることができなかったから。
 そのような「もうひとり」を抱えてしまった人間の孤独を、私は思わずにいられない。現実世界での高見修司は、必ずしも全く孤立していたわけではない。その人間的美質を、世間的「常識」に惑わされず理解する眼をそなえた妻にめぐり会っているし、数は多くないけれど、心を許した友人たちもいた。(その友人のひとりを通じて、死の前年、ニューヨークのアーヴィング・シュテットナーと文通を交わすことになる。)しかし、高見の孤独とは、結局、彼自身しか癒すことのできない孤独だった。そういう孤独があるのだ。だから、彼は絵を描いた。自らの手で山巓の風を拓き、内なる「もうひとり」を生かし抜くために。丘の家の狭い物置で、水彩画を描く高見修司の姿を、私は思い浮かべる。仕事から帰ると、彼は毎晩そこで絵筆をとったという。物置には線が引き込まれて、蛍光灯が針金で不器用に下げられていた。板壁一枚の部屋だから、冬はひどい寒気が忍び込み、外套を着込まなければならない。そんな場所でも、彼は初めての自分のアトリエだと言って喜んでいたらしい。
 そのような場所で描かれた「晩年」の水彩画に、私は指で触れてみる。この紙や絵具は、粗末な小部屋で、風や雪の日や虫の音のすだく夜更けに、小さな眼を光らせ、ときには苛立たしげに眉をひそめ、震えながら、また幼児のように小躍りしながら、黙々と絵に立ち向かった男を確かに見たのだ。もしかしたら、これらの絵の美しさは、それが見たもの、紙の瞳に映しだされたものの美しさなのかも知れない。少なくとも、そこに感じられる澄んだ光は、技術的な習熟とは一切無縁だ。それは描くという執拗な行為を通じて、高見修司が遂げた、あの「もうひとり」への、つまり「内なる無垢」への成熟そのものの輝きなのだ。

            ☆

 私が初めて高見修司に会ったのは、1988年の3月か4月の晴れた日だった。2月の中野紅画廊の個展で、私が絵を買ったことを聞いたのだろう。当時勤めていた新潟の美術館に彼が訪ねてきた。羊画廊の堀さんに、居場所を聞いたと言った。美術館では、画家佐藤哲三と彼が指導した子供たちの絵の展覧会が開催中だったが、彼はそれを見てから、受付で私を呼び出したのだ。
 美術館の喫茶室で、コーヒーを飲みながら、15分ほど話をした。革のジャンパーを着込み、椅子に脚を組んですわる姿は、画家というより、なるほど生業の運転手と言われたほうがしっくりくる。高見修司は、低いちょっと嗄れた声で、とぎれとぎれに喋った。何を話したろう。展覧会に出ていた佐藤哲三の「みのり」という風景画について、「あれはいいねえ」と言うので、いい眼をした人だなと思ったことを覚えている。洲之内徹の絵の見方が面白いとも言った。絵をほとんど水平にして横から見たりする、あれは凄いねえ。彼の仕事に話を向けると、今度は大きい絵を描きたいんだ、と語った。洲之内徹が自分の絵をどう言ったかとか、絵を買ってくれてありがとうといった類いの話は一切しない。それがすがすがしかった。私が忙しいと見たのか、これで、と立ち上がる。忙しくはなかった。引きとめようと思い、躊躇して言葉を探していると、高見修司はもう背を向けて去っていくところだった。
 勘定を済ませてあわててホールに出ると、春の陽を浴びたアプローチのゆるやかな坂を降りていくジャンパーが、大きなガラス越しに見えた。振り返るのではないかと思ったが、そのまままっすぐに歩いて、やがて壁の陰に消えた。私はうかつだった。大声をあげて是が非でも呼びとめるべきだったのだ。けれど私は、壁の向こうには、自分の場所がまたあると素朴に信じてしまった。結局、それが私と高見修司の最初で最後の出会いだった。いかつい風貌に、少年の魂を宿した画家が見えなくなったあとの、目に痛いような広々とした陽だまりを、私は何十秒かぼーっと眺めていた。まるで高見修司が、私のために、とっておきの山巓の光をそこに置いていったとでもいうように。
                              1990年11月28日


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