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「不快」もたらす小説  洲之内徹文学集成

大倉宏(美術評論家)
 
左から「洲之内徹 絵のある一生」「洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵」「洲之内徹文学集成」「洲之内徹きまぐれ美術館シリーズ(全6冊セット)」

 佐藤哲三、佐藤清三郎、田畑あきら子などを紹介し、新潟とも縁の深かった美術評論家洲之内徹の本の刊行が、没後21年にして相次いでいる。
 いくつかのエッセーの復刊に続き、この夏には「洲之内徹文学集成」(月曜社)が出た。画廊経営を始め軽妙な美術エッセーを綴り出す前、戦後の約20年洲之内徹は小説を書いていた。
 生前に出た小説全集と違う点は発表順に並べられたこと、戦前期の文芸評論など単行本未収録の原稿を多数収めたこと、作品の詳細な背景データを記した「解説ノート」が付されたことである。このノートは大西香織と私が担当したが、細かな記録は大半が大西の調査による。洲之内が死んだ時まだ20歳前後だった編集者の粘りに感嘆しながら、その執心を引き出す何かが、洲之内の「文芸」に隠されてあることを感じた。
 洲之内の小説は、特務機関員として足掛け9年を過ごした戦地中国の体験を書いたものと、戦後の恋愛体験をモチーフとしたものに分かれる。どの小説も読後に、大量あるいは微量の不快を残すという特徴がある。力量を認められたびたび文学賞候補となりながら受賞できなかった理由がそこにあった。小説に作家あるいは人間的欠陥を見る評者は、生前から死後にいたるまで多い。
 洲之内の小説、エッセーの原点は過酷な戦争体験にある。といっても戦地では境遇的には恵まれていた。左翼の活動家であったことを買われて特務機関員となり、太原では自身の公館を持ち、日常は一兵卒から見れば優雅ですらあった。過酷はけれど、そのように戦時を「生きのびる」ため内なるヒューマニズムを彼が焼いたことにあった。弾圧で左翼活動が不可能となり文学にのめり込んでいった戦前の評論には、モーパッサンなど悪を描く文学への共感が記されている。絶望的な状況に追い込まれた人間に裸形のいのちと「文学の可能性」を見ると書いた(「抗議する文学」)。観念ばかりが先行する活動にどこか空疎を感じていたと晩年には回想している。志願して軍属となり戦地へ赴いた背景には、皮相的なヒューマニズムへの懐疑があったのだろう。
 そして戦地で実際に彼は自分のヒューマニズムを「焼く」。「砂」はそのような体験を描いた小説である。繊細でもある主人公は保身と欲望と自負心のため、自分のなかの人間を焼く。小説が不快をもたらすのは描かれた体験ではなく、書き手の言葉に人間が抜き取られている。その感触である。戦後の男を描く「掌のにおい」はそのような人間が、人間を根底でどう感じるようになるかを描いた短編だ。男の内なる人間不在に絶望して自殺を図り、昏睡状態に陥った女の体に、男は「もっとも完全な女の状態」を見て欲情する。戦後ヒューマニズムがまだ若かった時代、この小説は文学賞の選者たちに散々の悪評を浴びたという。半世紀を経た今、これらの小説の与える「不快」そのものが、むしろ私たちに、あるいは私より若い世代には親しく、共感を呼ぶものにさえなってきたのかも知れないと、洲之内徹について知りたいと京都から訪ねてきた若い人と話していて感じた。
 「人間」を焼かれた男が意識のない女、死体に群がる蛆、汚水の底のモノの蠢きに興奮し、いのちを感じる。そのような小説の男と絵を見つめる「気まぐれ美術館」の洲之内徹に同じ「目」を見たのは文芸評論家の福田和也である。
 12年前洲之内徹の回想集の編集に携わった時「洲之内徹という複雑な起伏と風景に富んだ奥深い領国に関して本格的な踏査がなされるのは、むしろこれからなのではないか」と書いた。ヒューマニズムを焼いた男の心の世界と向かい合う時代が、始まろうといているのかも知れない。
                         2008年8月6日 新潟日報


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