飯田晴行は現在74歳。旧牧村(現上越市)に生まれ、新潟大学に学び、絵画制作を続けてきた。昭和31年からは北蒲原の新発田市に暮らしている。
新発田は佐藤哲三、布川勝三という優れた風景画家をはぐくんだ土地だ。飯田晴行は一時期女性のヌードをモチーフにしていたが、いつからかその裸体は、雪をまとった山々のイメージに重なり、画面が風景への傾斜を帯び始めた。
しかしその仕事に、風景がより明確なモチーフとして浮上してきたのは1990年だった。その冬、飯田は風邪を引き、病床でデカルコマニーの制作を始めた。デカルコマニーは、紙に絵の具を載せもう一枚の紙でそれを挟み、はがした時に意想外の形象がそこに表れるという手法(会わせ絵)で、20世紀初頭のヨーロッパでシュールレアリスムの画家たちが頻繁に使用したことで知られる。
日本では美術批評家の瀧口修造が熱中したことで知られ、また近年評価の高い写真家牛腸茂雄が、繊細なデカルコマニーの作品集を残しているのが思い浮ぶ。
飯田が病床で何を思ってデカルコマニーを始めたかは分からない。しかし一旦始めると、それは深く飯田の心をつかみ、魅入られたような没頭が始まった。
飯田のデカルコマニーは前紀の瀧口や牛腸のそれと比較してみると、いくつか独特の特徴がある。一つは色で、飯田はデカルコマニーに黒しか使用しない(瀧口、牛腸は多種の色を使っている)。またトリミングして作品に仕上げる点は瀧口と共通するが、そうして切り取られて現れるイメージが、飯田の場合は明らかに風景になっていることだ。
デカルコマニーは絵と違い、現れてくる図様、特に微細な細部はほとんど画家の目と手から切り離された場所で意図的統御からほどかれて生まれる。といって誰がしても同じになるわけではなくそこに作り手の個性がにじんでくるのは前記三人の作品を比較すると明らかだ。絵と異なる点は、イメージの投射と現れてくるイメージの受容という作画を構成する二つの作用のうち後者の比率が圧倒的に高い点だろう。
飯田を熱中させたのは紙の中から現れ出る黒と白の絡み合いのドラマを見る時間の驚きであり、なにより彼を震撼させたのは、小さなその混沌の中に無限の深さと広さを持った風景が、自分に見えるということだったのではないだろうか。デカルコマニーはそのような目の自己発見を、飯田にもたらした。
そのデカルコマニーをのぞき込むと、紙に墨をまき散らして暴れながら、終わってみると見事な風景(山水)が現れていたという中国唐代末の溌墨画家の逸話を私は思い出す。風景に吸い込まれていく自分と俯瞰する場所に遠ざかっていく自分に裂かれるめまい。静謐ではげしい、この光景は、まるで現実の世界が刻される眼球のスクリーンの裏面に突き出した見えない凹凸のようだ。
デカルコマニーの誕生と並行して、飯田の油彩の世界にはヌードを重く、褐色の画面に塗り込め、見ることの不思議な体温を画肌に染みとおらせたような「地霊」シリーズが生まれてきた。その後のスペイン旅行と、旅で見た荒々しい自然や北蒲原の風土に触発されながら、重く熱い蠕動を今も続ける油彩の大作と90年代のデカルコマニーを砂丘館で、最近作を羊画廊で同時期に展観する。