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2008年8月26日〜9月15日 ■主催:砂丘館(新潟絵屋・新潟ビルサービス特定共同企業体)


線は生きている 浅野弥衛展
 

浅野弥衛(あさの やえ)
1914年三重県鈴鹿市生まれ。中学卒業後戦業軍人となり、傍ら自宅隣に住む詩人野田理一の影響を受け画家を志す。戦後は、会社務めの傍ら美術文化協会に所属(63年退会)。42歳から画に専念。1950年代より“引っかき”という独自の技法により、抽象的なモノクロームの作品を多く描く。70年代以降は「ブルーチェス」シリーズなど美しい色彩が、線と響きあう世界を生み出した。生涯を鈴鹿の生家で過ごし、1996年に没。

ギャラリートーク
●2008年8月31日
●ギャラリートーク
 「線の歌」
●東俊郎(美術評論家・元三重県立美術館学芸員)×大倉宏(美術評論家)

同時期開催
浅野弥衛展
●2008年9月2日〜10日
●新潟絵屋


 
自在な図柄 時を超え洗練

東俊郎(美術評論家)

 
 画家浅野弥衛の生涯はたった一行でいうことができる。三重県の鈴鹿に生まれ、鈴鹿で暮らし、鈴鹿で生を終えた。その絵の骨法は誰に教えられたというものでもない。ほぼ独学で習得して洗練したものである。こういう画家がいたことを、そしてとりわけわたしを魅了してやまない浅野さんの作品そのものをどう語ってみせればいいのだろうか。
 ここでふと小林古径もことが思い出される。古径は上越市に生まれ、幼少より日本画に非凡な才能をあらわした。故郷を出て上京、そこで入門した画塾で良き友に出会い、さまざまな賞を得るとともに原三渓など有力なパトロンに恵まれ、およそ絵を愛するひとにひろく知られることになった。そういうわけで、かれは自他ともに認める大家として、わたし自身、村上華岳とならんでその作品のもつ気品を深く深く敬愛してやまない画家である。それにくらべれば画家浅野弥衛は知る人ぞ知る、つまりはほとんど知られていない存在である。しかし浅野さんに抱いているわたしの敬愛はといえば、その清潔きわまりない作品においても、またその巧むことのない諧謔にさえた人柄に関しても、小林古径へのそれに勝るとも劣らない。
 ところでこの二人には意外な共通点があった。地道に穏やかに、外面的にはおよそ波乱のない暮らしがそれであり、その夾雑物を排除して可能なかぎり単純な姿をとろうとする生活ぶりは、それぞれの制作にあたっての、倦まず怠らず、長い年月をかけて励みつとめた精進とみごとに照応しているのである。

 わたしがはじめて鈴鹿にある浅野さんの自宅を訪れたのはいつごろだったのか、浅野さんはすでに老境にはいって、というよりもっと正確には自分の仕事を信じたひとだけがもつ軽みと余裕をごく自然にふりまいていた。天命を知るという古いことばをわたしはそのとき浅野さんに感じていたのだといってもいい。旧街道に面した商家の造りには、たばこをあつかっていた家業の面影がまだ消えずに残っている。すすめられて通された仏間も居間も、日本家屋の単純さがもつ落ち着きを無関心とまちがえるほどゆきとどいた審美の目で守っているとみえた。庭からの光を柔らかく受ける障子戸につづく床の間に自作がさりげなく置かれている。隣人につくってもらったという手づくりの鄙びた画架がその絵によく似合った。
 現代とは過去を否定することではない。白と黒で織られた自在な図柄の時をこえた洗練。それは浅野さんの伊勢ことばのように風土の陰影を柔らかくつつんで、展覧会ではみせたことのない表情で一段とくつろいでいるといった趣である。浅野さんの絵は抽象画だときめつけて普段ははなしをすませているが、それは本当はちがうんじゃないか。もっと難しいことばと結びつけたほうがいいとかんがえはじめるのは、そんなときである。もっともつぎの瞬間には、辛辣が愛情でもある軽妙洒脱な話しぶりの妙に、わたしはただ耳を傾けていたのだが。

2008年8月25日 新潟日報 掲載


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