ガイド地図利用案内 ギャラリー催し

 

2009年11月20日〜12月27日 ■主催:砂丘館(新潟絵屋・新潟ビルサービス特定共同企業体)


高岡典男彫刻展 言葉の棺
 

高岡典男(たかおか のりお)
1950年東京生まれ。76年金沢美術工芸大学美術学科彫刻専攻卒業。92〜93年芸術家在外研修員として文化庁よりイタリアへ派遣。94年中原悌二郎賞優秀賞受賞・「新潟市野外彫刻大賞展」優秀賞受賞。オーストリア・イタリア・メキシコ・ドイツ・エジプト・ベトナムにおける国際彫刻シンポジウムへの招待多数。パブリックコレクションは新潟市立美術館、新潟市産業振興センター、旭川市立彫刻美術館、埼玉県立近代美術館、VALLE ROVETO(イタリア)、SULMONA美術館(イタリア)、日墨会館(メキシコ) など

ギャラリートーク
●2009年11月23日
●ギャラリートーク
 「『言葉の棺』をめぐって」
●高岡典男/聞き手:大倉宏

 

同時期開催
高岡典男展
●2009年11月20日〜12月1日
●羊画廊

「言葉の棺」2008年 アフリカ産黒御影石 62×164×54cm
 
視覚、触覚通じて哲学を問う

川本嘉彦

 
 不思議な姿の大きな御影石が置かれている。古い蔵の、歩くとねずみの鳴くような音できしむ厚板の床に。
 その姿は何とは名指せないのだが、記憶のさまざまな層をゆるゆると刺激しつつ、特定のイメージの網ですくおうとすると、するりと逃れる皮膚のやわらかい「ぬめり」を持っている。見ているとつかまえたくなる。またつかもうとして、すり抜けられる。周囲をめぐると、そんなスリリングなドラマが目や体のなかに起こる。
 「言葉の棺」=写真=と題された石は彫刻家高岡典男の新作。「言葉」は歴史の波にのまれ失われた言語、文明を指し、「棺」はそれらを再生の日まで内に包み保持する器の意味という。さまざまな国、文明の跡を旅して浮かんだイメージとのこと。高岡の魅力は硬い石から不思議に柔らかい表情、声を引き出す素材への感性と豊かな造形力に加え、視覚と触覚のことばを通じて彼が世界に投げかける問いの射程の深さと遠さにある。
 「ハイブリッドな種」と題されたシリーズは金属と石を用い、異種の混ざり合いから新しいものが生まれつつある現代の、未来の文明に視線を投げかけたもの。新潟の2会場の展示で、この柔らかく美しいモノの哲学の道をゆっくり歩いてみたい。

2009年11月18日 新潟日報 掲載


 「言葉の棺」・・・国語辞典を繰ってみれば、言葉 1)人の発する音声で意味を持ったもの。2)言語を文字に表したもの。言語 1)人類特有の表現・受容行為の1つ。2)音声または文字によって思想・感情を表現し、伝達し、受容する行為。
 言葉は実際、文明のなかで生き生きと使われ、人の思想・感情を次なる文明へと運ぶ、人のこころの器であると考える。私が「言葉の棺」というタイトルをつけた意図には、確かに「言葉」は上記の意味に加えて、誤解と惑わしをも伝達するという言葉の伝達における負の部分にも十分に注目している。一方、「棺」とは1)死体を入れる箱。とまったく実も蓋もなく冷たい意味しか載っていないが、しかし、私はこの「言葉の棺」というタイトル中の「棺」の意味としてエジプトのあのミイラが納められた「棺」を思い浮かべている。壮麗に飾り、彩色をほどこし、人型をまだ残したままの器に思いを重ねているのである。つまり、納められたものたちの蘇ることを願ったその思想とかたちにである。
 今、世界で使われている言語の種類だけでも6,800あるそうで、そのうち使用する人が2,500人以下という言語の数はおよそ3,000。しかも言語はグローバリゼーション化により次第に使われなくなり、今世紀末には600ぐらいしか残らない予想である、という資料さえあった。その数の妥当性はともかくとして、生みだされ消えて行くというこの姿は確かである。百年後どのくらいの言葉が残っているか興味深いところである。
 近代より世界はヨーロッパおよびアメリカを中心とした思想を軸にまわって来たように思われる。それは古代ギリシア・古代ローマを受け継ぐ流れとみることができる。その流れの中でいくつもの文明がのみ込まれ、消えて行ったのだが、古代ローマ文明に大きく影響したエジプト文明はその大きなものの1つである。
 私は消された文明というものにいつからか興味を持ち始めた。今は残っていない物を見たい。未知のものを見たい。それがどのようなものであったかという素朴な興味からである。その影響と系譜が現代に続いて来て無意識の私たちの考え方を規定していたりしていると思うと興味は尽きないからである。遺跡の前に立った時、手触りや皮膚から感じ、満ちてくるその遺跡の素材や質感は私を刺激し、消えた文明の実在を証明する。さらに言語の面からはロゼッタ・ストーンによって閉じられた文明の解読が少し始まり、現代のわれわれ社会の中に消された文明の遺産やかけらがちりばめられていることが次第にわかってきている。消えたもの(消されたもの)残ったもの(残されたもの) などが見えてくるようになり、言葉が失われたものと現代を繋ぐ。言葉を取り巻く文明のダイナミックな世界が目の前に広がるような気がするのである。
 今われわれの日常に目を向けてみれば、やはりすばらしく速いスピードで言葉は大量に生み出されるが、手にすくった水が指の間から逃げるようにまた消えてゆく。
 私は、人が受容しそこない、消えていくであろう言葉の中にも、また蘇ってくるものがあると信じている。消えてゆく言葉に再生へのゆりかごとして「言葉の棺」を捧げる。
                                 高岡典男

再生の棺――高岡典男の新作「言葉の棺」をめぐって
                                 大倉 宏
 高岡典男の最新作のひとつである「言葉の棺」を、最初見たとき、どこかで見たことがあるような既視感と、まるで知らないものを目にした時の驚きが同時に、そしてなぜなのか、ひとつのもののように訪れて、それが私の心を浮遊させた。
 花びらのような、超高速の乗り物のような、半ズボンのような、鉛筆ケースのような、はさみのような、再構成された心臓のような……実にさまざまなものに似ているのに、そのどれでもなく、これはこれである、と静かにほほ笑んでいるような、不思議。そしてこれは彼の作品に触れていつも感じることなのだが、石という物質がその重さ、堅牢を失うことなく、けれどやわらかく、軽やかでもあるように見える面白さに、微妙に高揚してしまった。
 「言葉の棺」という耳なれない言葉は、世界の様々な地域で高岡が接した失われた文明の痕跡の印象から、彼が抱くようになったイメージという。これまでさまざまな人間の言葉、文明が、時の盛衰の中で消えていった。あるものはわずかな跡を残し、またあるものはまったく残さずに。エジプト王のミイラを納める棺が、人間の「再生」を信じて作られた容れ物であったように、そのような失われた国や文明とともに消えていった言葉を抱き寄せて、納め、再生の日まで寡黙に保持し、運んでいく器。実際に、近づいてみると分るのだが、この立体は石棺のふたのように上部両側がはずれるようになっており、内部が空洞になっている。
 けれどこの石の彫刻は、そのようなイメージの単純な転写、あるいは立体的な図化なのではない。それはその題名も含めたさまざまなイメージのどれにも、片寄らず、そのいわば中間に、中空に、時を飛行する乗り物のように浮かんでいる。それでいて、それらのイメージの花から花へひらひらと舞っていく蝶のように漂うのではなく、静かな、重々しくはない不動感がある。
 軒から軒へ渡された蜘蛛の糸を思わせる、細く、繊細なこの不動感は、私が高岡典男の立体に感じて引かれるひとつの感触なのだが、それは「言葉の棺」という美しく、重い言葉から垣間みえる、石を刻み、削り、形づくるという肉体の作業と同時に――別個にでもなく、しかし束ねられもせず、彼が保持してきた世界や人間の営みへの強い関心、静かな視線の手ざわりなのだろう。



砂丘館(旧日本銀行新潟支店長役宅)
〒951-8104 新潟市中央区西大畑町5218-1
TEL & FAX 025-222-2676