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六日町(現南魚沼市)に医師平賀洗一(1902〜1980)の次男として生まれた平賀壯太(1936〜)は、10代の頃、絵の道と科学の道の選択に迷いますが、父洗一から画家になるならピカソのような独創的な大芸術家になれと言われ、前者をあきらめ、後者を選びます。分子生物学の分野で世界的に注目される業績をあげ、熊本大学、京都大学での研究活動の後、70歳を過ぎて絵画制作を本格的に再開。科学者の余技とは思われぬ正確な描写力の上に、大胆、明快、ユーモアに富んだ想像力を飛翔させた作品群を、父洗一の絵画・映像作品とともに紹介します。
六日町には、平賀父子ばかりでなく、近代初頭から戦後にいたるまで活発な文化的活動がありました。明治期に地芝居を撮影した今成無事平(1837〜1881)、戦中戦後六日町に教師として赴任し、平賀父子とも親しく交流した画家の長谷川正巳(1914〜2003)、戦後六日町に疎開していた版画家上野誠(1909〜1980)、第四銀行六日町支店長を勤め、洗一とも交友を得、退職後新発田で画廊を開設した田部直枝(1905〜2003)ら、六日町と平賀父子周辺の人々を紹介し、一地方都市における生きた文化の姿をもあわせて描きます。 |
ギャラリートーク |
●2011年8月7日
●平賀壯太講演会
「父・平賀洗一を語る」 |
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平賀壮太と父・洗一展に寄せて
光るユーモアとひらめき
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大倉宏(美術評論家) |
平賀壮太」は今年75歳。熊本大学、京都大学で長く研究を続け、大腸菌の染色体外遺伝子についてさまざまな新発見をした分子生物学者だった。だったと書くのは、3年前に科学者は画家に「転身」したからで、以後旺盛な創作力で描かれてきた絵は、なんとも不思議な「描く楽しさ」に溢れている。長い研究者時代も、絵は、たとえ描かれなくとも、ずっとこの人のそばにいた。それがようやくキャンバスに放たれ、いまのびのび息をしている。そんな感じがするのである。
平賀は六日町(現南魚沼市)生まれで、父洗一は開業医だった。従妹を描いた9歳の油絵が残るが、これが実に魅力的で、色といい、筆の力といい、イメージの直截さといい、70過ぎの絵にそのまま直結している。絵好きの少年は中学時代に昆虫採集と研究に没頭し、当時知られていなかったオオゴマシジミの生活史についての新発見をした。研究に全面的に協力したのも洗一だった。10代半ば、絵と科学のどちらに人生の進路をとるべきか迷った時、父は画家ならピカソのような独創的な大芸術家になるのでなければいけないと言い、独創的な芸術家にはなれても大芸術家は難しいと感じ、科学に進む。
70代の転身は、科学の世界で行くところまで行きついた少年が、最初の分かれ道に戻り、もうひとつの道を歩き出したということだったかもしれない。少年期に昆虫の姿を細部まで子細に描写した人らしく、単純化されてもイメージが明快で、想像で描いた外国人女性の連作も、その人がそこに実在するような印象を受ける。題名や構成やイメージの組み合わせに知の人らしい、ユーモアとひらめきがある。ウイットに富んだそのエッセーも魅力的だ。
これらの絵から差す「明るさ・楽しさ」は、源をたどれば、父洗一、さらには六日町という山間の町に流れる独特の空気でもあったようだ。六日町は陸路と水路の結節点で、いろいろな文化的刺激が往来した。明治初期には今成無事平が地芝居の格好をした人々を、極めて作為的なアングルで撮影をしたユニークな写真を残している。洗一は30代の頃(昭和初期)渓谷や離島の磯で、全裸の女たちをモデルにした大胆で魅力的な実験映像を制作していた。残された数点の油絵にも、素人離れした描写力と凛とした品格がある。佐藤哲三の親友だった画家・教育者の長谷川正巳は戦中戦後六日町に住み、洗一と親しく交わり、その感性豊かな人間性と理を重んじた教え方は少年壮太にも強い印象を残す。長谷川の縁で版画家上野誠も六日町で戦後の一時期を過している。また佐藤哲三の最晩年、作品頒布会を組織して支えた銀行員田部直枝は、後に六日町に勤務して洗一に出会い、その人間に啓発される。そして洗一の描いた「長谷川正巳像」を印象深く心に刻み、退職後新発田の自宅に開設した画廊で、長谷川正巳と息子健の展覧会も開いている。
砂丘館の展覧会は、科学者的気質の芸術家と言うべき平賀父子の作品とともに、その周辺の人々をも紹介し、一地方都市に流れていた文化の空気感の一端を伝える。
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平賀洗一「海女 へぐら島」より
1937年 映像作品 |
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