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2011年10月4日〜11月6日  ■主催:砂丘館(新潟絵屋・新潟ビルサービス特定共同企業体)

末松正樹の時代展
 

末松正樹

末松正樹(すえまつ まさき)
1908年新発田市生まれ。青年時代舞踊を学ぶため渡欧。大戦中のフランスで抽象絵画を描きはじめる。帰国後は自由美術家協会、主体美術協会で活躍。フランス美術の紹介、映画字幕の仕事でも知られ、マルセル・カルネの名作の邦題になった「天井桟敷」の訳語も創造。69年学園紛争時の多摩美術大学で学長代行をつとめる。91年新潟市美術館、92年板橋区立美術館で回顧展開催。97年88才で没。

展覧会関連イベント
●2011年10月8日
●講演会
「戦争と人間 末松正樹のこと」
 司修(画家・小説家)
司修
●2011年10月22日
●講演会
「父・あれこれ」
 香山マリエ(末松正樹長女)

●2011年10月15日・16日
●平原慎太郎ダンスパフォーマンス
「末松正樹の時代展」に寄せて
 戦争体験 絵に救い求め

大倉宏(美術評論家)

 
 末松正樹の絵が、少しずつ、好きになってきた。
 30年近く前、画家佐藤哲三の話を聞きに世田谷の自宅を訪ねた。明治生まれの末松は少年期、父の仕事の関係で住まいが転々とするが、23歳で新発田に住み、佐藤と知り合う。当時その佐藤の絵の濃厚な「日本」に魅せられていた私は、末松の抽象絵画の美しさに惹かれつつ、ものたりなくも感じた。しかし波乱に富んだ生涯の話をつぶさに聞くうちに、絵とのつながりも理解されてきた。
 1997年に88歳で亡くなった末松の遺作は、その後、各地の美術館に収蔵された。大戦直後、フランス美術の「現在」を伝えた業績等とともに、その絵は、美術史に一つの位置を占めつつある。
 しかし、私にとって、それらはどこか「ものたりない」ものであり続けてきた。才能の、力量の、問題なのか。
 忘れかけていた疑問を、目覚めさせてくれたのが、一昨年刊行された司修の『戦争と美術と人間 末松正樹の二つのフランス』(白水社)だった。5年以上もの時間をかけ末松の若き日の人生を追い、伴走し、時代を見つめ、残された言葉を読んだ記録である。
 末松は若き日に舞踊に憧れ、日本の舞踊を紹介する一行のitiinnとして渡欧し、第二次大戦の勃発に遭う。多くの日本人が帰国するなか、マルセイユの領事館に職を得て、ドイツ占領下のフランスで過ごした。大戦末期、スペインに脱出を図るが、国境近くの町ペルピニャンで捕まり俘虜になる。この俘虜時代に、踊る人の群像を繰り返し描き、それが次第に抽象化されていった。帰国後は抽象画家、フランス美術、映画の紹介者として活躍する。マルセル・カルネの映画を訳し「天井桟敷」という日本語を作ったことでも知られる。
 司の伴走は、末松の画家としての出発点となったペルピニャンで終る。その末松に、司は厳しい否定の言葉を投げつけていた。人生に、人間に向き合うべきとき、なぜ絵に、芸術に逃避したのかと問う。末松は沈黙する。
 「私は弱い人間です」と、末松が静かな口調で語っていたことを思い出す。ペルピニャンではドイツ軍に協力したフランス人も捕まり、銃殺された。その「戦争」の音は俘虜時代の素描からは聞こえない。まるで耳を塞ぐように、絵に、芸術に彼は救いを求めていた。
 今春刊行された香山マリエ『天井桟敷の父へ』(鳥影社)では、酒に飲まれたり、生母のずるさを正視できないダメな人としての末松が、肉親の目で見つめられていた。そんな等身大の「人」が見えてくるとともに、私はその絵が、前より素直に、まっすぐ見られるようになってきた。抽象絵画という姿の、一人の人の自画像に見えてきたのである。
 今回の末松正樹展は、ペルピニャン時代の素描群を軸に、戦後の抽象作品を加えて紹介する。新潟では20年ぶりの回顧展になる。会場のある西大畑は新潟高校時代に末松正樹が住み、海への道を歩いた土地でもある。一人の画家と人間を、絵とその生きた時代とともに振り返りたい。

2011年10月3日 新潟日報 掲載 

「群像」
1945年(ペルピニャン抑留時代)
水彩、紙 20.0×27.7cm



香山マリエ著
『天井桟敷の父へ』

(鳥影社)
自己の弱さに向き合う人生
                 評者・大倉 宏(美術評論家)
 画家ではない。
 人としての末松正樹─を描いた本が、もう一冊現れた。昨年刊行の司修「戦争と美術と人間 末松正樹と二つのフランス」は1944年、フランスの日本領事館員だった末松(新発田市生まれ)が大戦末期、スペイン国境に近いペルピニャンで敵国人として逮捕され、ホテルの一室に拘束された時期までを追った人間告発の書だった。
 本書は、末松の一人娘で戦後生まれの著者が、ペルピニャンを訪れるところから始まる。欧州の新しい舞踊運動に引かれて渡仏した末松が、大戦の勃発に遭い、とどまり、国境の町のホテルの一室で描き続けたデッサンから、画家として出発する。末松の人としての弱さと卑屈を、厳しく鞭打ちつつ歩いた司と異なり、著者は自分の出会う前の父については極力客観的に語ろうとする。
 本書の力は、司が書かなかった戦後の末松の、フランス美術、映画の紹介者、画家としての活躍の背後に隠された、肉親にしか見えない暗部を見つめ、言葉にした点にあるだろう。末松が生前何人にも語った「弱さ」とは何か。酒乱だった忌まわしい父の忠告「専門家になるな」に呪縛され続けたこと、息子を溺愛した母の虚言癖と狡さを、終生正面から見据えられなかったこと。自分を弱くしたものを、どうしても拒絶できない二重拘束。その生い立ちと、同じく激しくいがみ合った父母のもとで育った自分の体験が似ることに「父は気づいていただろうか」と筆者は問いかける。
 生前の末松に会い、聞いた言葉、見た絵に、筆者も「弱さ」を感じた。それでいて、惹かれるものがあった。宿命的な弱さに圧されてなお、人生に向き合おうとする思いを、この人は持っていた。
 晩年穏やかだった両親に「そう簡単にあの日々をなかったものにされてたまるものか」と思った娘が綴る本書の、毅然としたトーンは、「目をそらせていた」人の切実だった願いをはねつけるのではなく、長い葛藤ののち受容した場所から立ち上がってくる。
 子に、かく打たれても懐れぬほど、画家の人間的弱さが根深いものだったとしても、その人生は、生前他者の前では立てることのなかった音を響かせる。
 肉親の書く人生の事実と、その人生の生んだ抽象絵画は別物だろうか? そうは思わない。うつろを抱えた明るい絵の、塗り隠された影までも含む全部を、見つめる勇気を読後抱くことができた。

司修著『戦争と美術と人間 末松正樹の二つのフランス』(白水社)
1939年、銀幕で舞うレニ・リーフェンシュタールに魅せられた一人の日本人青年が、ノイエ・タンツ(新舞踏)を学びにヨーロッパへ渡った。やがて、大戦が勃発。敵性国民としてフランスで投獄され、その後ホテルの一室に幽閉される。来る日も来る日も、ただそこから見えるものだけをデッサンする日々。その長く孤独な軟禁生活の果てに、彼の描く絵は具象的な形を失っていく。こうして、ひとりの抽象画家が生まれた。彼の名は末松正樹。戦後は自由美術協会や主体美術協会で活躍した、日本を代表する抽象画家である。大岡昇平の後任としてフランス映画輸出組合日本事務所に勤め、得意の語学力を活かしてコクトーの映画を始め40以上の字幕も手がけるなど、異色の経歴を持つ。マルセル・カルネの「天井桟敷の人々」という邦題も、末松の発案である。また、マチスをはじめ偉大な芸術家との貴重な交流をもとに、パリ画壇の動向を紹介しつづけ、多摩美術大学の学長代行まで務めた。そんな、華やかにみえる画家の作品がもつ〈陰〉を鋭く感じ取っていた、自らも画家である著者が、闇を体験した人間と芸術の本質に、鋭く迫る渾身の一冊。著者自装。


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