ある日、私の仕事場である新潟市民芸術文化会館へ私宛ての小包が届きました。封を開けると、中には過去に送り主がデザインしたと思われる衣装の写真、そしていまだ見ぬ新作のデザイン画、ならびにその衣装に使う生地までが入っていました。
中嶋佑一と名乗る送り主が衣装デザイナーであり、私と共に舞台芸術を創作する熱意をもっていることは分かりましたが、その小包はそれまで私の手元に届いた熱意の小包とは趣を異にしていました。なぜなら舞台衣装は、決まった題材や、演出家のコンセプトに基づき、打ち合わせを重ねた後にデザインされる場合が多く、舞台芸術を創造するための分業の一つであるという通念があるからです。
しかしその小包の送り主は、自ら過去に創作した作品を提示すると同時に、自らが次に創作したい衣装を提示し、それをどう思うかと私に問いかけて来たのです。そしてそのデザインには舞台衣装を舞台芸術の一つの要素としてではなく、そのモノとしての芸術性、すなわち美術として捉えているという強い意志が感じられました。
この自らの存在そのものを問いかけてくるような強い意志、押さえ込むことのできない自我の露呈、そして生き急ぐかのような情熱は私を惹きつけ、私はその小包が内包する「危険性」に胸が高鳴ったことを覚えています。なぜなら舞台芸術創造には、舞台芸術に対する情熱、創作の困難に立ち向かう強い意志と同時に、いまだ見ぬモノを創作するために避けては通れぬ「危険性」に胸躍るような勇気が必要であり、それをその小包は私に訴えてきたのです。
「恐るべき童」―これは今も変わらず私が中嶋に対して抱く印象です。成人でありながら邪気を含む童心を忘れぬこと。あるいは押さえつけぬこと。それは時として、成人たちが作り上げた大人社会において、不適合な行動へと繋がるでしょう。
しかし芸術家が芸術本来の力を存分に発揮するためには、社会においてアウトサイダー、すなわち不適合であることは必要なエネルギーなのです。なぜなら既存の社会に対する問題提起、あるいは自らの内に抱える問題を自らの外(社会)へと吐き出す行為には、社会的適合性といったような理性では押さえ込めない、膨大なエネルギーが必要だからです。
言い方を変えるならば、そのエネルギーを有する人々の呼称が芸術家なのです。「芸術は自然を模倣する」という言葉が示すように、現代の人間社会が自然環境からかけ離れ、ひいては破壊するに至っている時、ある芸術が反社会的であるとは、その芸術は自然的であるということがいえるのではないでしょうか。しかし、そもそも今年成人となった122万人もの若者のうち、どれほどの若者たちが社会的適合者であり、社会的適合者とは一体何なのでしょうか。そういった問いを「恐るべき童」は我々に投げかけてきます。そして「恐るべき童」とは、幼き頃、誰しもが心に抱いたその「なぜ?」を、いつまでも、いつまでも問い続けることのできる、社会の童なのです。