目を覚ますと、淡い朱色の四角が浮いている。
小窓にさす曙光が、壁に映っているのだと気付く。心にしみ入る光だ。
宇和島に住む吉田淳治とは、美術評論家・洲之内徹の回想集を編んだ十数年前に知り合った。その後東京で個展を見た。
油彩から水彩へ揺れ動きながら、絵が劇的に変容する様を目撃した。吉田の絵には線、形、絵肌という三つの独立した人格がいて、その3人が取っ組み合いのけんかを始めたようなはげしさに魅了された。新潟でも2度、水彩画展を開いてもらった。
その後吉田は油彩に戻り、3人は長い延々と続く話し合いを始めたようだった。
昨年、愛媛の久万美術館で吉田の回顧展があった。この数年の絵が独自の相貌を帯び始めていた。水彩時代の混沌が影をひそめ、初期の絵に似たシンプルな形があらわれてきていた。
シンプルなのに、けれどシンプルではない。見えない混沌を秘めた気配が絵からにじみ、壁の曙光のようにしみてくる。そう書いて、吉田の近作のなんとも美しい色が、光の色なのだと気付く。美しい光だ。
抽象とは、イメージや記号の散乱する現実世界から切り離された「画面」の中で、もうひとつの世界を作り上げる行為だろうか。輪郭(線)が形を控えめに支え、一見平坦に見え、さざなみのように動く絵肌。それらの協働が生み出す、深いバスの響きを思わせる色光から、今年61歳になる吉田が、そこで生まれ、描き続けてきた宇和島の、新潟とは違う空気や光の移ろいや波の音が、見えないが、感じられる。
あわせて展示される石や漂流物によるオブジェは、この抽象画家の目が、現実の浜や、山や川原で、同じように生き生きと、ユーモラスに働いていたことを告げて、ほほえましい。