1987年74歳で亡くなった洲之内徹は、56歳で初めて訪れて以後、新潟と深いかかわりを持った。
美術評論家、小説家、画廊主、コレクター、エッセイスト…どの一つにもすんなり収まらない、多面な人だった。50代後半から書きだし、『絵のなかの散歩』『気まぐれ美術館』など6冊の単行本として残された文章は、評論であり、随筆であり、私小説でもあるような不思議な読み物で、随所に新潟が出てくる。
愛媛県松山市生まれの洲之内徹を、新潟へ誘ったのは、新発田の画家佐藤哲三だった。当時東京で完全に忘れられていた佐藤の作品数点を目にし、遺作展を思い立って作品を集めに来た。高速道路も新幹線もないころ、新潟は山のかなたの遠い土地だった。佐藤がくり返し描いた蒲原平野は、稲刈りの最中だったが、代表作「みぞれ」のそぼった初冬の光景が重なって見えた。洲之内の言葉は佐藤の絵への投入から、人生の深部に分け入っていく。
こうして導かれた新潟で、出会った人々に魅了され、恋をする。エッセーを読んだ未知の女性から出湯山中(阿賀野市)の小さい山小屋をもらい、佐藤清三郎、田畑あきら子といった忘れられかけた、きらめく才能に出会う。61歳で「芸術新潮」に連載を始めた「気まぐれ美術館」の初回は佐藤清三郎で、以後しばらく数回に一度は新潟が登場した。言葉は時に絵を離れ、自身の体験や過去へめぐった。
美術評論として無駄に見える言葉が、しかし絵を、画家を語る言葉を生かす。言葉から絵が、描く人、見る人の人生が、そして時代が見えてくる。類のない評論言語の誕生に、新潟は大きい役割をはたした。
洲之内徹の言葉の力に衝かれ、私も佐藤清三郎の空間に導かれた。
24年前、当時は新潟県美術博物館学芸員だった小見秀男氏と新潟の所蔵家を訪ねて歩き、東京へ行くと絵の写真を洲之内徹に見せに行った。70歳前後だった洲之内は、今にして思えば新潟からやや気持が遠ざかっていたはずだが、若かった私や、私たちを懐かしそうに迎えた。「50代の終わりごろから60代半ばにかけての10年あまり」の「青春」の舞台だった新潟、その記憶をわれわれが運んで行ったのかも知れない。
洲之内徹の言葉の中の新潟は、いつも瑞々しい未知の場に分け入る心臓の鼓動が聞こえる。武田幸作、木下晋、串田良方、峰村リツ子、渡邊博、栗田宏、林美紀子など、エッセーや経営する画廊で紹介した新潟の画家も多い。没後にファンとなった読者が、ゆかりの地に巡礼のように訪れる減少が今も続く。
今秋新潮社は全エッセーを合本で再刊し、特集本(とんぼの本『洲之内徹 絵のある一生』)を出した。来年には別の出版社から小説全集の再刊行も計画されている。洲之内徹ルネサンスのような気配も感じられだした中、新潟で佐藤哲三をはじめ、かかわりのあった画家たちの絵を集めた小さな展覧会を開く。
田畑あきら子展を計画中だった洲之内徹が急逝したのは10月28日。夕空が透明な柿色に輝き、海岸の松林の影を黒く浮び上がらせていた、新潟を思い出す。