榎本千賀子 阿賀野川プロジェクト展
日時:2022年8月4日(木)~9月11日(日)【終了しました】
土地と営みと 大倉宏 10年ほど前に初めて会ったころ、榎本千賀子は明晰で、生き生きと語る口調が印象的な若い写真家で、ほどなく、高度成長期に形成されたと思える東京の住宅地を撮った微妙な構成感が魅力的な写真群で新潟絵屋での個展を企画させてもらった。その前後だったろうか、当時彼女が関わっていた新潟大学地域映像アーカイブセンターの企画として、新潟大学旭町学術資料展示館で開かれた角田(つのだ)勝之助の昭和2-30年代の写真を紹介する展示に電気で打たれたようなショックを受けたのだが、その写真選択が実は撮影者によるものではなく、榎本が手掛けたものだったこと、プリントや展示構成も彼女がおこなったということを知って強い印象を受けた。 新潟大学での助教生活を終えると、榎本はその角田の住む金山(かねやま)町に移住し、町役場の嘱託職員となって、町に残された写真を探し、人々の話を聞き、すぐれたディレクションによる展示をおこない、冊子を制作した。その金山で彼女が撮影した写真と角田の写真を紹介する展示を砂丘館では2017年に開催した。 それから3年後の2020年新型コロナウイルスの感染拡大が爆発的に広がった時期に、彼女はふたたび新潟大学に助教となってやってきたが、授業も対面ではほとんどおこなえず、人とも会うことのままならない中で、新潟市と金山町を結ぶ阿賀野川の川べりを河口から辿って撮影する「阿賀野川プロジェクト」を開始している。知人に教えられて、当時彼女がインスタグラムに挙げ始めていた写真群を目にしたときのおどろきは、今も忘れられない。 これは東京時代からの彼女の写真の特徴なのだが、人のいない風景に、ごくさりげない、無言の影のように、人の営みが写しこまれる。人をストレートに写す角田とはまことに対照的ながら、ふたりの写真はそこで、確かに通じていると感じる。 一年前から榎本にも加わってもらい金塚(きんづか)友之亟の『蒲原の民俗』をリモートで読む会を月2回程度のペースで続けている。明治から昭和初期ころの新潟の農業、漁業、狩猟、生活の丹念なフィールドワークの記録だ。それを読むと、かつて平野にはどの季節にも人がいて、さまざまな活動が行われていたことが分かる。今の蒲原平野はまるでオートメーション化された無人工場みたいだと書くと、あきらかに言いすぎではあるけれど、土地土地の微妙微細な高低差や条件の違いが、そこでおこなわれる営みに影響し、違いに対応したさまざまな手作業、身体作業による労や営があった時代を思うと、あながちオーバーな印象でもないという気がする。 榎本が河口から歩き始めて出会った堤外地の、面白いほどに多様な給水設備は、今は遠くなってしまった、個々の田がそれぞれ違い、どこにも個々の異なった営みがあった時代を彷彿させる。まるで立ち去ったはずの時代が、忘れものをとりにきてコロナ禍の写真家にばったり会い、目を合わせているかのようだ。 (砂丘館館長) 堤外地のポンプ 榎本千賀子 川はところを定めて流れるものではない。人の力で川を固定することが可能になったのは、近代的土木技術の獲得以降のことである。注1) 阿賀野川・信濃川・小阿賀野川に囲まれた亀田郷はかつて、「地図にない湖」と呼ばれていた。氾濫を繰り返す川や、低地に溜まる「悪水」は、田畑や家屋をしばしば水に沈めた。 人々は、川や水路や潟の底の堆積物=「ゴミ」を渫っては、胸まで泥に沈む深田に客土を繰り返し、かろうじて土地の高度を保つことで、「地図にない湖」での稲作を行なっていた。注2) 亀田郷のような低湿地での農業は、農地周囲の水辺で行われる漁労をはじめ、複合的に成立する生計をつぶさに検討するならば、乾地には見られない生産上の利点をもち、耕作者を土地所有制度の限界から開放する可能性を有するものであったと言われる。注3) だが、多大な労力を必要とし、面積あたりの収穫量も少ない低湿地での農業は、一般的には前時代的で克服すべきものと捉えられて、土地改良の対象とされてきた。「地図にない湖」=亀田郷もまた、堤防や排水場の建設によって、今では地図通りの陸地となっている。 堤防を越えて、川に向かって歩く。鳥たちの騒ぐ葦原や、浚渫作業で高く積み上げられた土砂を抜け、広々と拓けた田畑に出る。 近年の阿賀野川では、下流域の堤外地(堤防より川側の土地)の約半分は農地として利用されている。注4) 河川敷や中洲での耕作は近代化以前から行われていたはずだが、現在みられる田畑の多くは、戦後の河川整備と土地改良事業の進展に従い、拡大・整備されてきたものであるらしい。整然と区画された堤外の田畑は、時折見かける「占用許可」と記された杭を除けば、一見しただけでは堤内(堤防に守られた陸側)の農地と変わるところがない。 だが、ある時畑で出会った人が、堤外の農地は数年に一度は水に浸かるのだと教えてくれた。水に浸かればその年の作物は被害を受けるが、氾濫した川は田畑に栄養に富んだ土を運び込む。それはむしろ望ましいことだ、とその人は言った。 増水時には河川の流路となる堤外地では、たとえ占用許可が出されていても、地上には仮設的・可搬的な構造物しか設置することができない。そのため、堤外地の農業用水路のほとんどは地下に埋設されている。また、勾配にも乏しいことから、大半の堤外地の水田には、地下から田へと水を汲み上げる小規模かつ簡易的な灌漑装置が設置されている。 ホースあるいはパイプで作られた流路、エンジンと連結されたポンプ、組み上げた水の勢いを弱めるための枡、動力部を保護する箱やカバーからなるこれらの装置は、中古農機のエンジンや看板のトタンをはじめ、身近なところで発見された様々な素材を流用して組み上げられている。それらは田へ水をひくという同一の機能を持ちながらも、ひとつとして同じ姿をしていない。 堤外地は、氾濫の可能性を秘めた巨大な川の力を受け止め、「地図にない湖」を封じるために設定された緩衝地帯である。そこに点在する灌漑装置は、数年に一度水に沈む不確実性を抱えたその土地の条件の下で、個人が自らの自由と創造性をいかに獲得し得るのかを、極めて具体的なかたちで指し示しているように思われる。 注1)大熊孝(2020)『洪水と水害をとらえなおす 自然観の転換と川との共生』農文協 注2)金塚友之亟(1970)『蒲原の民俗 新潟県民俗学会叢書』野島出版 注3)菅豊(1994)「「水辺」の開拓史 低湿地農耕ははたして否定的な農耕技術か?」『国立歴史民俗博物館研究報告』第57集, 63-94頁 注4)国土交通省北陸地方整備局(2016)『阿賀野川水系河川整備計画』 〈会期中の催し〉 ギャラリートーク「阿賀野川プロジェクトをめぐって」 榎本千賀子 聞き手:大倉宏 8月20日(土)14:00-15:30 定員20人 要申込 参加費500円 申込 砂丘館へ電話またはファックス(025-222-2676) またはEメール yoyaku@bz04.plala.or.jp で 申し込み受付開始 8月10日