自然光にひそむ色から浮かび上がる、日常空間の非日常という新鮮!
吉田重信展
日時:2024年5月15日(水)~7月7日(日)【終了しました】
吉田重信 ヒカリノミチ 光を直接見ることはできない—そのことを知ったときはもちろん、今でも少し混乱する。私たちは、光が当った物質を見るのであって、光そのものを見ているのではない。そもそも光は、携帯電話の電波と同じ電磁波であり、可視光線は、その中でも波長のごくごく狭い領域にすぎないのだ。さらに光は粒子であり波であると物理学はいう。理屈は通っていても、およそ腑に落ちなかった。 吉田の作品と光のことを考えるとき、筆者は四十年前に本人から聞いたことを思い出す。百号ほどの画面に、スクラップ状態の自動車ボディーが、鎖や鉄棒で縛りつけられた作品。吉田によれば、ただの自動車ではなく、事故車であることが大事なのだという。それを知って、その作品が、技術や構図といった美術的な観点を超えて、異質に感じられた理由が解った。吉田は表現のコアに、物を浮かび上がらせるが、それ自体は見えないものを据えていたのだ。当時は、霊?と考えていたのだが、もっと普遍的なもの—光だったことが、その後の作品群で明らかになっていく。 虫眼鏡で紙を焼く。光ファイバーを使った集光装置で太陽光を暗室に持ち込む。プリズムで分光した光景を記録する。鏡によって水をプリズムに変える。窓ガラスにカラーシートを貼り、室内を透過光で満たす。吉田の歩みは、メディアとしての光を表現するものになった。電波が振動して音を届けるように、メディアは物を情報に変化させる。光も存在としては粒子、運動すれば波になる、ということなのだ。その表現過程で吉田自身が、光を媒介するメディアとして逆転したようで、子どもの靴のインスタレーションや漆、絵の具を重ねた作品でさえ、光の問題として見えてくる。 光は、その行く手をさえぎるものが表れない限り、私たちには宇宙の暗黒が続くように感じられる。逆に常に光が当たって物が見えているとき、光のはたらきを見逃しがちになる。水をプリズムに変えて、分光された虹を樹木に投射する作品は、その虚をついたように、光と水と樹木が出会うことが、得難い機縁だったことに気づかせてくれた。水の波が、光の波を増幅して、樹木を恩寵のように照らし出すのだ。それは光の粒子として画面に定着されている。 今回、吉田のヒカリノミチで砂丘館(旧日本銀行新潟支店長役宅)が照らし出される。そこにコンデンサーのように貯められてきた九十年分の光が、吉田の作品と万華鏡のように干渉しあう場になるだろう。 小泉晋弥(茨城県天心記念五浦美術館館長)