栗田宏展
目をひたしてみる 大倉宏 2007年に砂丘館で栗田宏展を開催した。 その展示にあわせ画集が作られた。発行は当時新潟市の東堀通りにあった画廊Full Moonで、新潟絵屋で栗田の絵に接して魅せられた越野泉さんが、彼の絵を紹介することを主目的に作った画廊である。砂丘館という広い会場での展示のタイミングに合わせて編纂された一冊が、会期中どれほどに人の手に渡ったのかは、よく覚えていないが、決して多くはなかったと思う。30ページあまりの、大部とは言えない画集は、上田浩子さんのシンプルなデザインが栗田の絵の魅力を生かしていた。私も制作に関わり、平生は寡黙な栗田に、絵についてまとまって語ってもらうことができたのは僥倖だった。 画廊Full Moonが活動を休止した2011年以後は、新潟絵屋で、私が企画者となって3度栗田の個展を開催した。しかし、週半分以上は腎臓透析に通う生活となりつつあったその頃の栗田は1980~2000年代のような、大きな、あるいは密度の濃い絵を描くことはもうなかった。 2021年に新潟絵屋はスウェーデンのストックホルムで開かれた、アーティスト・ラン・ギャラリー(共同自主運営の画廊)が集うアートフェアに参加し、栗田宏、蓮池もも、しんぞうという三人の新潟の画家を紹介するべく、準備をした。新型コロナウイルス感染の世界的拡大で、入国が厳しくなったため渡航はかなわなかったが、小さな展示ブースに、送ったデータを、隣のブースの画廊の方が好意で、ほぼ実物大にプリントアウトして、壁にはってくれた。数日間の展示だったけれど伝え聞く反応はよかった。その翌年のアートフェアには、新潟絵屋の研究員である岡部安曇さんが、ストックホルムを訪ね、関係者に前年のお礼を伝えるとともに、さまざまな美術関係者と交流した。持参した栗田の画集も多くの人に見せたが、何人かは、渡された図版を食い入るように、また静かに、長く見つめ、深く心を揺さぶられる様子を示し、感想を語ったことを岡部さんは伝えてくれた。 栗田の展覧会を開くごとに、紙に書いた手紙を瓶に入れて海にぽーんと投げたような気分になった。でも、ふしぎなことに、決して多くはないが、たしかに、誰かに(ときに越野さんや、岡部さんのようにたった「ひとり」に)、届いてきたという感触があった。絵に静かに耳を澄ます人の内部を、国境や、時代を超えて、揺さぶる、熱する。そんな普遍的な力がある。そう信じてきたので、岡部さんの話にうなずかされるとともに、勇気づけられた。 2007年の展示では、作者と画廊Full Moonそして新潟の何人かの所蔵者からお借りした絵を展示した。栗田宏没後、初の回顧展示となる今回は、17年前には並べることができなかった1990年代の秀作を、何点か新たに追加して紹介する。たったひとりでもいい、だれかに、見知らぬ人に、届くように、と念じながら今回も並べるだろう。 ここに引くのは栗田の絵にいちはやく心を揺すられたひとり、現代画廊主で美術エッセイストの洲之内徹の言葉だ。 人間の皮膚を描きたい、とそのとき栗田さんは言っていた。人間は皮膚で外界と接触し、外界から区切られている。内部と外部とから同時に作用を受けているのが皮膚だ、というようなことを言っていたが、要するに、つながりながら別のものである内部と外部との、そのつながりの場を確かめたいといことのようであった。…例の線の集積のような作品を見ながら、どこからこの画面を描き始めるのかと、私はまた訊いた。すると、自分の住みたい方形を決める四つの点を置くことから始まるのだ、というのが答えであった。雲をつかむような言葉だが、気持ちはよく分かる。自分と世界のつながりが分からなくなり、そのために不安になっているわれわれ現代の人間に共通する悲願は、まさにそれだと思うからである。* そう書いた洲之内徹もまた、絵を黙って、長く、見る人だった。1987年10月洲之内の葬儀にともに参列した帰途、新幹線の中で、洲之内に見せたかったという絵を見せられた。栗田の絵に、初めて目をひたしたひとときだった。そのとき灯った火が、いまも私に瓶を海に投げさせている。
(砂丘館館長)
*1984年の現代画廊での個展案内状より
ギャラリートーク1「栗田宏を語る」 2024年10月6日(日) 14時~15時半 栗田秀子(栗田宏のパートナー)+片山陽子(栗田宏の姉) 聞き手 大倉宏(砂丘館館長) 参加料500円 定員30人 申し込みは砂丘館へ ギャラリートーク2「栗田宏の絵について」 2024年10月22日(火) 16時半~17時半 大倉宏(砂丘館館長) 参加無料 定員30人 申し込み不要 直接会場へ 同時期開催 「栗田宏展」 10月17日(木)~30日(水) 11時~18時(最終日は~17時) 新潟絵屋 新潟市中央区上大川前通10-1864 観覧無料